甲府 時の鐘
鐘の音で時を知らせるということは、そもそも仏教寺院の「梵鐘」がもとで、明け六つ(午前6時)、昼九つ(正午)、暮れ六つ(午後6時)に撞いたものでした。時が下って江戸時代になると、鐘楼に吊るした大型の鐘を撞いて、市井の人々に時を知らせる「時の鐘」は、日々の暮らしを区切る中心的な手段となりました。
江戸時代の時刻は、一日を12刻に分け、そこに12支をあてはめ、卯の刻(午前6時)、午の刻(正午)、酉の刻(午後6時)、子の刻(午前零時)などと呼びました。そして、昼夜を問わず2時間ごとに一日12回、鐘を撞いて時を知らせました。この鐘の音によって、人々は、防犯のための木戸の開閉(閉じた木戸を開けるのに支払った金銭を木戸銭といいます)、農作業の開始、城下の各種行事への参加、銭湯の開店閉店(男湯時間と女湯時間とが分かれていました)など、日常生活すべてを判断しました。
また、時刻のとり方は、現在のように、年間通じて24時間が等間隔ではなく、いわゆる不定時法といって、昼夜の長さの違いを調整して刻されました。日の出とともに起き、日が暮れれば一日を終えた江戸時代には、生活のリズムに合った時刻法といえましょう。
甲府城下におきましては、寛文年間(1661-1673)ごろ、横近習町(現・中央2丁目)に在った超勝山歓喜院(現・廃寺)に鐘楼が建立されました。柳沢時代の城下再整備に伴い、宝永5(1708)年に愛宕町へ移転後、火災で焼失しましたが、文化15(1818)年に再建され、明治5(1872)年まで使われていたといわれています。
この鐘楼は、甲府市民の幸福と甲府市の発展とともに、甲府を訪れる多くの方々のご多幸を記念して、141年の時を経て、平成25(2013)年に、甲州夢小路に新造されました。前述の愛宕町の鐘楼を模造したと伝わる法性山玄法院(現・天神町)の鐘楼を模し、同寺に残されていた写真・鳥瞰図・礎石を基に、底辺3間(5.4m)角、高さ5丈(15m)、銅張の外壁といった仕様で、忠実に再現されています。
ボタンを押して鐘を鳴らすことができます。
写真左、時の金のライトアップ。写真右、鐘を鳴らすボタン。